蛙声の游び場  
photo ①武川雪の山荘②伊東市内の渚③河津駅傍の河津桜④武川から南アルプス⑤タッチして出る5種の花⑥道灌銅像     
💛本館とは毛色が違う作品です、今月は…
じつはこの作品を創る10年以上も前に『テロ』という脚本で200字詰めペラ100枚の原作(ちょうど第1章沙絵の章の骨格部分に該当)を書いていました、映画になったとしたら1時間と少し程度でしょう。そのドラマ上の骨格だけを活かし視点も変え400字詰め262枚の本作を創っています。同人誌『岩漿』にも載せましたが、今回HP掲載にあたり沙絵、片桐、坩堝(るつぼ)という3章に再構成し、校正の際に文章面での見直しも行っています。自作脚本の一部を引き継いだこともあり、私にしては珍しくハードボイルド的な運びになっています。熱海の公の施設に勤務している頃で多忙だったのですが、書くのがすこぶる楽しかったという意味で私の中で唯一無二の小説になりました。
『狗にあらず』(いぬにあらず)2003-4年/pdf ➡ inuniarazup 
💗ツンドク積読corner*そこに愛はありますか💔
(4)『空に映る海の色』(そらにうつるうみのいろ)2009年 海街生れの大人の恋➡ soraniuturuumi
(3)『戯れる木霊』(たわむれるこだま)2007年 「愛」に殉じる狂気か ➡ tawamurerukodama
(2)『傾いた鼎』(かたむいたかなえ)2015年 青年3人の視点で生と性を捉える➡ katamuitakanae
(1)『入相の鐘』(いりあいのかね)1995年 画家と作家とモデルの愛の三つ巴を描く  ➡iriainokane
  
南アルプス 
💗五花タッチ 
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♥『小説太田道灌』の執筆と上梓で学んだ20年
【出会い】記憶の細部は朧になってきたが「江戸城築城は太田道灌」としか知らなかった私がこのテーマに出会ったのは昭和が最終場面に入った63年頃に伊豆半島に来て最初に勤めた先の営業戦略道灌イベントだった。社長が末裔だということで本格化し調査、取材にも力が入っていた。後年処女出版『小説太田道灌』の執筆時、史料・資料になったものの半ばはこの時期に収集している。退職後ちょうど参加していた東伊豆町の同人誌『碧』への原稿として「どうせ長すぎるからボツになる」と「期待」して出したのが道灌を書いた『蛟竜の角』で、これが20年に亙る途轍もない作業の発端となった。或る日、碧編集長F氏に呼ばれ御宅に伺うと「これ全面的に書き直す覚悟はあるか」と恐ろしい称賛?の言葉。彼は数多の指摘箇所に付箋を付けた私の原稿を寄越し「各所再考してから出し直せ」と言って酒をすすめてきた。彼は載せる気だったのだ。こうして未熟さ満載の私の道灌舟は『碧3号』の大部分を占めて地元の書店に置かれた(1991年)。地元観光地の同人誌なので比較的気楽に出されたこの作品が、たまたま入手した人の手を経て、まさか20数年後に東京の公立図書館に姿を現すとは思いもよらなかった。偶然目にした「主君に殺されるかもと判っていたのになぜ道灌は10数人の供という無防備な姿で最期の地に赴いたのか」という疑問文から時代小説に挑んだ当時の私には、書くこと、発表することの「覚悟」が無かったと言っていい。
【迷路】「脱稿して発表、公開したとたんに不備が見つかり不満が募り自作への悔いが残る」とはよく知る同人たちの台詞だが、私のそれは容赦のない形で自分の中で大きくなっていった。その原因の1つは碧同人の1人からの批判「ウソはいけません」だった。私の認識では歴史論文を書いたわけではない、虚構で始め虚構で始末する小説なのだ。確たる史料が少ないとされる主人公では尚更のこと。しかし私は反論しなかった。ただ、「とんでもないものに手を付けたな」と悔いた。そんなわけで国立国会図書館で道灌関連書籍を検索し、パソコンを始めてからはネット検索で関連資料を探し必要なものをプリントアウトして読み保存もした。さらに道灌の墓のある伊勢原市の洞昌院を再訪し、すでに承知している鎌倉の建長寺、英勝寺、さらに「江戸城」、謀殺されたと伝承される伊勢原市の相陽府跡地、主君上杉定正の居城川越城などをめぐり「道灌の風」のようなものを感じ取った。むしろそれらを疎かにしてしたためたことが悔いの本体だったような気がする。考えてみれば10年近くの気が遠くなるほど長い反省になる。ただ1つ落ち込んだ自分を支えたもの、それは新しい道灌像を創りたかったという想いは正しい姿勢だったというもの。それは再度書き直すためのエネルギーとなっていく。
【再出発】書き直すと言っても残すべきは残す、先ずはその作業の指針として、時代小説の大家たちが道灌についてほとんど書き遺していない理由とされる出生から江戸城築城までの間の史料の少なさに解決を求め、謀殺される前数年に創作舞台を狭めて各種伝承は道灌像を読者が創りやすくするための手助けとして利用するという形を採った。というより、そうするより手立てがなかった。そして同人誌に載せた自作からその指針から外れるものを惜しみなく削除した。すると不思議に太い1本の筋が通り血肉を加える作業が明確になった。思ったより早く新草稿が成った所以だ。ただ一つどうしても解決できなかったこと、それが道灌最期の場所とされる湯殿だった。当時の浴室が時代考証的にイメージできなかったのだ。未完のまま何年か放置した後、突然「救世主」が見つかる、林美一著『時代風俗考証事典』がそれで、見つけた処は因縁めくが川越市内の古書店だった。大げさに言えば画竜点睛が成って書籍化の第一歩は踏み終わった。パソコンは手許にあっても雨だれ的にキーボードを叩いていた私では、多忙な仕事柄いつ打ち終わるか見当もつかない。そう私の作は紙の原稿用紙、已む無く人を頼ることにして、小田原の文芸誌で知り合ったブラインドタッチで入力できるFさんに「ベタ打ちでいいですから」とお願いをした。彼女は打ちながら作品を読み取ったらしく「時代物でここまで書ければふつう言揚げしないんですけど」と柔らかに抑制しつつ、主に使用する単語について時代として違和感があるものを列挙してくれた。私はここでも長年文芸の世界に居た人の凄さを感じた。感謝すべき人はもう一人、表紙デザイン、装丁を引き受けてくれた小田原の同人でデザイナーのTさんだ。何しろ私はベタ打ち後のデータ原稿を校正し版下作りまでやるというビンボー著者だった、つまり印刷製本だけをプロに依頼して300部を刷るという「暴挙」に出ていたのだから。実は当初東京の友人に自費出版の見積を採って欲しいと頼んだ。ところが出てきた数字が180万だったので仰天、出せる訳が無い。結果だけを言うと、300部25万で刷り終わった。この素敵な印刷屋を紹介してくれたのは伊東の同人誌のS氏、考えてみれば処女出版『小説太田道灌』(2006年)は小田原と伊東の同人の協力なしには上梓できなかった。感謝しかない、それは決して忘れない。
【上梓の波紋】あまりに長年月を要した作品だったので印刷された本が届いた直後は脱力感と高揚感が同時に襲って来て妙な状態になった。ようやく300部の振り分けに入り、国公立図書館41館に既定の2部ずつを寄贈、文芸関係機関と同人誌関連の人たちに1部ずつ寄贈、近親者に寄贈と終えた後、地元の書店に販売を委託して発送作業を終えたときには発行部数の半分を残すだけになっていた。頒布、販売の反応はこのあとかなりの間隔を空けて諸々届き始めた。通常同人誌を送っても受け取りましたという「拝受通知」だけになるのだが、この回ばかりは30人超で感想が付されていて大いに感激をした。最終的にこの本は手許に2冊しか残っておらず、停滞せずとにかく動いてくれた。この動きの中で特筆すべきは道灌末裔の会や道灌研究者の方々との書簡やネットや書籍のやり取りなど通信交歓が産まれてくれたことだろう。しかしそれは、私自身の浅学菲才を露わにすることにもなった。「道灌所縁の当地のことに全く触れていない」「史実と違うのではないか」等々の甘受するつもりの予想された批難もいくつか届いた。これらを受けて思う。道灌ファンの何と多いことか、その範囲の何と広いことか。ここから、発行後少なからず頂戴した高評価は「素人にしては」ということと解して素直に今後の創作に活かせ、と学んだ。たぶんこんな感じかな、「時代物書くなんて100年早いよ」100年では次回作は無理で無しだと思う。しかしそうだとしても、私が書いたのはタイトルにも明示されている通り「小説」なのだ。最後に、1冊の小説の読み取り方、感じ方が恐ろしく多岐に亘るということを苦い想いをしながらも、しっかりと学ばせてもらったことは大きかった。
     伊勢原 太田道灌像                
           
          💛蛙声が声には出さず書いて考える (繰り越し資料棚)
(3) 実際にありそうな「対応」MEMO「旅館さんガンバッテ」 PDF➡ ryokansanmemo
(2)小論文序章としての『旅館さんガンバッテ!』  PDF➡ ryokansan
(1)国民年金について一緒に手探りしてみませんか   ➡ (2018年) kokuminnenkin    

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