蛙声の游び場 
💛今月の至言「もし君が清き人であるならば、君の不幸もまた清きものである」(メーテルリンク)
🎶photo ①湖畔の桜  ②水鳥独り  ③消波B  ④叢の花  ⑤タッチで出る5花(常設)  ⑥M蓋にも日本文化     
心病む男の桜逃避行
ちょうど巷がいわゆる2000年問題で騒然としているころ『岩漿7号』に載せる短編小説の企画を練っていて、最後に適当に浮かんだのが今回の『薪樵る』(たきぎこる)(^^♪。 新人賞はとったものの後は鳴かず飛ばずの作家(主人公)が経済的に追い込まれ終に先祖代々の土地建物が強制執行の対象にされる。妻にはかつての不倫が響き塩対応され続けている。また、不倫相手の里花子は難病の身で夫ではなくこの作家の子を身籠ったため中絶させられ、その後病死をしている。彼は、隠れた恋が終り、経済的に破綻し、夫婦生活も破綻、さらに迫り来る自宅喪失などから心が壊れ、或る夜家を離れ里花子の霊を呼び出して妄想の鎌倉散策を始める。徹底的に弱くて駄目な男を描いてみようと半ば楽しんで、仕事で多忙の中筆を進めた記憶がある。今回載せる『薪樵る』は元の小説の再校閲から入り改編を試みたものとご理解ありたい。今となっては落し噺のようだが、桜を扱っていることから7号をみてくれた大先輩から思いもよらぬ言葉を頂戴した、「桜と言えば梶井基次郎のがある、(おまえが)書くには数十年早い」と。高名な作家に対抗などできる訳がないので当然とは思うが、私はそんな大それたことは考えもしなかった。だいいち比較されたらしい『櫻の樹の下には』(1931年作品集『檸檬』所収)という短編小説は残念ながら読んだことも無いのだ。叱られて初めてその存在を知った。もう一つある、7号を読んだ中学の同窓生が「今度のは好きになれなかった、何だか観光案内みたいで」と直接言ってくれたが、これも意外な感想だった。ただ今回の改編ではその批評を強く意識して対応している、元不倫相手との妄想の散策なのである程度行先順になるのは不可避だったが。また、男の最期のシーンの解釈についても少しく解釈がもめていたようなので、妻を自宅で殺したことと自殺の場になる駅舎で警官が出てきた場面のどちらかが更なる妄想でないと筋が通らなくなる。そこで選択権を読み手に預けるようにして創った。自画自賛になるが、作者としては改編作の方が読みやすいと思う。
『薪樵る』(たきぎこる)2000/2023年 PDF ➡ takigikolu2
♬こぼれ噺* この小説では登場人物で名前が出てくるのは「里花子」だけになっている。1人称で書いているので主人公(作家)は「私」で済むし、その彼が作中で「妻は妻であればよく名前さえ要らないのかも」とうそぶいているので妻の名も敢えて付けなかった。つまり故意の名無しなのでミスではない(…と思う)♬ 尚、執筆中にこんな歌を思い出した。『咲きつつも何やら花のさびしきは散りなん後をおもう心か』(吉野太夫)
        
💗ツンドク積読corner*そこに愛はありますか💔
(8)『身一つ庵』(みひとつあん)1998年 心病んだ男が泊った民宿で快復してゆく ➡ mihitotuan
(7)『孤往記』~迷走の章~(こおうき)1999年 孤独の青年が昭和の大都会を活きてゆく➡ koouki
(6)『朴の葉の落ちるころ』(ほおのはのおちるころ)2013年亡き兄依頼の➡ hoonohanootirukoro
(5)『狗にあらず』(いぬにあらず)2003年 闇組織粉砕が出来る警官は彼だけだ ➡ inuniarazup
(4)『空に映る海の色』(そらにうつるうみのいろ)2009年 海街生れの大人の恋➡ soraniuturuumi
(3)『戯れる木霊』(たわむれるこだま)2007年 「愛」に殉じる狂気か ➡ tawamurerukodama
(2)『傾いた鼎』(かたむいたかなえ)2015年 青年3人の視点で生と性を捉える➡ katamuitakanae
(1)『入相の鐘』(いりあいのかね)1995年 画家と作家とモデルの愛の三つ巴を描く  ➡iriainokane
  
 
💗五花タッチ (いつかタッチ いまタッチ)♪ 
more about
叢の花 野に咲く花の強さと可憐さに心打たれる
 いまは朝ドラで植物学者牧野富太郎をモデルにした『らんまん』をやっているし、たしかすでに『雑草という名の植物はない』という至言もあるので、野の花好きの私にはよい1年になりそうな気がする。このコーナーにもたくさん写真を出したかったのだが、撮りためた花をUSB一つに集めて保存していたため引越騒ぎの中でこれを紛失したらしく叶わなくなった。この時季、散歩中の道端には名も知らぬ野花が「爛漫」、名前を知っていればどれほど楽しいだろうと、いつも思う。そういえば現役の頃かなり高価な野草事典を買って持っていたが、何かの折に部下に貸したら日浅くして退職してしまって戻ってこなかった(笑) 野草だけに外で咲きたいのかもしれない。
                  
                             
               (^^♪ これも日本の職人芸 🎶
                              蓋にも文化
 私は日本の「kawaii」と英訳?される文化が好きでたまらない。イラスト付きのマンホールの蓋、工事現場のバリケードに見られるパンダ、兎、蛙などの動物からピカチュウにいたるまでの多種多彩な「アイドル」、バス、電車、飛行機に至るまでの可愛さ満点のラッピング、キャラ弁etc. 果ては新幹線のキティちゃん車両まで。 何でも「可愛く」してしまう文化のユーモラスな温かさとユルユルな包み込み(^^♪ 平穏・平和の極みではないか。いつまでも大事にされて続いてほしい。
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「馬場駿の小説はなぜ女性を主人公にしているのか
 【発端】じつはこのタイトルそのままの問いを戴いたことがある。事実40以上はある長短編の8割以上は女主人公だ。理由はいくつかに別れるが大雑把な言い方をすれば「創りやすい」からになる。伊豆に居を移して小説なるものを趣味にし最初にぶつかったのは、作品内容が事実あったことに違いないと受け取られたことだった。これは「小説なんて素人が書けるはずがない、だから書けたのは自分のことだからに違いない」という読者の思い込みに因る。「この主人公って君だよね」「ここのこの女の人って誰のことなの?」など信じられないような読み方をされたら小説の書きようがない。例えば今回の『薪樵る』でこれをやられたらどうなることか。しかも同人に訊くと私だけのことではないらしい。とくに女性同人はたまらないだろう。不倫、濡れ場ありの恋愛ものなど書いたら後ろ指さされ組に陥ることになる。小説は一部の例外を除き虚構に始って虚構で終わらせる書き方が中心になる。平たく言えば嘘で始末する文芸だ。そこで最も大事なのは創造力だろうが、中心になるのが想像力、更には飛んで妄想力だと思う。私はこれから語る他の理由も併せて早い段階でヒロイン中心の小説に傾いていった。
【客観視】同人の合評会などでよく聞くことだが、小説で自説と解されるような書き方はタブーだということがある。特に台詞ではなく地の文で実際に書いていてその虞(おそれ)は常に付きまとうことが分かる。作中人物の考え方、感じ方のつもりでいるのに第三者(読者)の大部分が作者の意見だなと感じる箇所がそれにあたる。これは特に1人の視点で小説を貫く1人称小説で犯しやすい。視点を天に置き登場人物のすべてに視点を配分して語れる3人称小説でもまま起こるが、これは尻に「〇〇はそう思った。」を付ければかなり落ち着くので、もっとも危険なのは1人称だろう。なぜなら小説全体が1人の「そう思った。」なので逃げようがない。私は結局、異性である女性主人公の視点を選ぶことでこれを回避することにした。当初は1人称ものだけを予定していたのだが、終にほとんどすべての作品に広げている。もっともいまは3人称的1人称なるものが現れているので少し事情は違うかもしれない。
【男には女は書けない】と、同人仲間の老女が感想文の中で言った。「あなたには」ではなく「男には」と広げている。私が尊敬している読書家の人で、私は当時非難ではなく、その難しさを指摘していると解釈している。いつもは微に入り細を穿って具体的に伝えてくれる人だったが、この言葉には解説文はなかった。文字にすることを憚ったのだろう。おそらく女の性的な部分を体験できない異性には最も大事な女の色と欲の部分が想像できないと云いたかったのだ。これはその人の他の書評、感想をを診てそう理解した。しかしそれを言われればおしまいなのだ。それが解かるから解析を文字にしなかったのではないか。その反対、女には男が…も言いうることになるがそれはどうなのか。この問題については昔、シナリオ講座で講師の一人だった新藤兼人先生が語っていた。私が脚本で女性を描いている、しかし私は異性の男だ。これをどうするか。私は男が書いた女で悩むことはない、いいと思う。先生の見解は明快だった。私も自分なりに同感した。それが問題視され否定されるなら小説をはじめ文芸は成り立たないからだ。
【普通の女がいない】これは同じ地区の別の同人誌主幹だった女性が、私の『岩漿』に載せた短編や上梓した長編を読んで感想文の中で評したこ言葉で、これも非難ではなく「面白い発見」と言った感じだった。私は私で「うん、そうだよ」と素直に受け止めている。彼女曰く、私が書く主人公は分野は違えど「容姿端麗で頭脳明晰、男勝りの行動力を持ち、きちんとした姿勢で自信をもって事件、問題に立ち向かう正にヒロイン」であることが多く、市井に沢山いる普通の女が主役として描かれていない。なぜそうなのかは単純でもうしわけないのだが、仕事多忙(当時)の中で、他人様の作品の編集もしながら時間を潰して企画し執筆をつづけ、脱稿するもお金になるわけもなく逆にページ割負担金というお金を払い、活字になればなったで批評、感想の「検体」になる作品なのに、彼女が並べた特色と真逆な女を描こうなどとは思わない。第一書いていて楽しくないではないか。それに、『夢の海』の静子は連続殺人を犯しているし、『ヘクソカズラの遺産』の文子は人の心が読めない偏屈な女、まったく例外が無いわけではない(笑) ただ、指摘された偏り(作風)も考えてみれば作者と主役を同一視されないための苦肉の策なのかもしれない。
                           💓居残り資料棚
(6)大病を抱える夫と伊豆に来た雪国の老女は『輪かんじきの跡』PDF➡ wakanzikinoato
(5)少子化議論への小さな土台として「親の子から社会の子へ」PDF➡ oyanokokara
(4)「生きるに値しない命」それを誰が決めるのか PDF➡ soreodaregakimerunoka                
(3) 実際にありそうな「対応」MEMO「旅館さんガンバッテ」 PDF➡ ryokansanmemo
(2)小論文序章としての『旅館さんガンバッテ!』  PDF➡ ryokansan
(1)国民年金について一緒に手探りしてみませんか   ➡ (2018年) kokuminnenkin    

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